5. 信仰に中心道場は必要ない

f:id:kuzuresarugajou:20180406230333j:plain

前回は④教団の絶対視というテーマを扱いました。今回は⑤中心道場の設定というテーマで日蓮正宗創価学会の共通点を考えたいと思います。

日蓮正宗戒壇大御本尊の存する富士大石寺を信仰の中心道場としており、ここに定期的に参詣すること(登山)を信者に求めています。その理由は、大御本尊への信仰心を信者に維持させることと、信者から定期的にお布施を回収することです。

一方、創価学会信濃町広宣流布大聖堂を信仰の中心道場としています。創価学会の会憲には以下のように書かれています。

「三代会長」の師弟の魂魄を留める不変の根源の地である信濃町に、創価学会の信仰の中心道場の建立を発願され、その大殿堂を「広宣流布大誓堂」と命名された。

この「師弟の魂魄を留める不変の根源の地」というのは意味深な表現ですね。大石寺では、大御本尊に日蓮の魂魄が留まっていると考えていますから、恐らくそれを意識しているのでしょう。

また、会憲には以下のように書かれています。

世界の会員は、国籍や老若男女を問わず、「大誓堂」に集い来り、永遠の師匠である「三代会長」と心を合わせ、民衆の幸福と繁栄、世界平和、自身の人間革命を祈り、ともどもに世界広宣流布を誓願する。

この「世界の会員は、国籍や老若男女を問わず、「大誓堂」に集い来り」の部分を読んで大石寺の「登山」を思い浮かべてしまうのは私だけではないと思います。今のところ創価学会は、大聖堂での誓願勤行会への参加者にお布施を要求していませんが、信濃町の経済的活性化を狙っているのは確実と思われます。

では、日蓮自身に「中心道場」という考え方があったのかというと、全くそんなことはないんですね。日蓮は「守護国家論」において、法華経の「是の処は即ち是れ道場なり(御書p72)」を引用し、さらに「余処に求む可きに非ず此の経を信ずる人の所住の処は即ち浄土なり(御書p72)」と述べ、「法華経の行者の修行するところはいかなる場所であっても道場である」ことを主張しています。

以上のことから、「信仰の中心道場」という考え方は後世の創作教義であり、大石寺の考え方がそのまま創価学会にも流用されているに過ぎないということが理解頂けると思います。

 

次回は、 日蓮正宗創価学会の共通点を総括したいと思います。

 

次の記事