16. 地獄は心の中にある

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創価学会員はよく「地獄に落ちる」という表現を使います。「学会を疑うと地獄に落ちる」「学会を批判すると地獄に落ちる」「学会を離れると地獄に落ちる」といった具合にです。

 

しかし、この「地獄に落ちる」という表現は、少なくとも仏教としては適切ではありません。

 

なぜなら、仏教では地獄はどこか遠い場所ではなく、我々の心の中にあると考えるからです。

 

地獄というのは、もともとはインドのヒンドゥー教(=バラモン教で信じられていた架空の世界です。ヒンドゥー教には輪廻という考え方があり、死後に魂が古い肉体から抜け出して新しい肉体に宿ると考えられています。来世にどのような肉体に魂が宿るかは、前世でどれだけ善いことや悪いことをしたかで決まります(業報思想)。そして、前世で物凄く悪いことをした結果、魂が赴く場所が地獄というわけです。

 

この輪廻と業報思想というのは、ヒンドゥー教の支配階級にとって物凄く都合の良い考え方です。なぜなら、支配階級の人々は、生活環境が劣悪な奴隷や不可触民に対して「お前らは前世で悪いことしたから、その身分に生まれたんだぞ」と言って責任転嫁できるからです。しかも、「来世もっと良く生まれ変わりたかったら、今世で俺らの言うことをちゃんと聞けよ」と彼らを支配することまでできるのです。

 

一方、仏教はヒンドゥー教の輪廻の考え方を根本から否定し、死後どうなるかや前世がどうであったかという問題に関しては「無記(言及しない)」の立場をとります。ですから仏教徒は霊魂が抜けるとか宿るとかそういうことも議論の対象としないし、霊魂の存在すらも想定しません。

 

そのかわり仏教では、輪廻というのは生きている時の心の在り方の変化であると考えます。この観点からすると、地獄というのは、偏執(偏った認識)が極限まで高まった結果、周りのすべてが自分を苦しめているように錯覚した状態、ということができます。前回説明したアンベードカル博士の言葉と同様、物事を徹底して心(認識)の問題として処理するんですね。

 

最も成立が古い原始仏典であるスッタニパータには、

【凡夫は欲望と貪りとに執着しているが、眼(まなこ)ある人はそれを捨てて道を歩め。この世の地獄を超えよ。中村元ブッダのことば」p153)】

とあり、地獄が来世ではなく現世の問題として捉えられていることが分かります。

また、同じスッタニパータに、

【世の中にある種々様々な苦しみは、執着を縁として生起する。(中村元ブッダのことば」p221)】

とあることから、この世の地獄というのは、執着(=偏執)が原因となって起こる苦しみのことであると理解することができます。

 

また、日蓮は十字御書において

抑(そもそも)地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば・或は地の下と申す経文もあり・或は地の下と西方と申す経も候、しかれども委細にたづね候へば我らが五尺の身の内に候とみへて候(中略)我等が心の内に父をあなづり母をおろかにする人は地獄其の人の心の内に候(中略)仏と申す事も我等の心の内にをはします(御書p1491)

と述べ、地獄や仏はどこか遠い場所にあるのではなく、我々の心身の内にあることを明言しています。

 

学会員が「地獄に落ちる」と言って会員を脅すのは、ヒンドゥー教の支配階級が奴隷や不可触民をコントロールするのに用いる手口と全く同じです。教団や社会システムから離脱しないよう彼らの心を縛り付けているだけなのです。ですから、こうしたことを学会から言われたとしても何も心配する必要はありません。仏教はこういった考え方を迷妄に過ぎないと喝破しているのです。

 

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