18. 空(くう)とは何か

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こんにちは。いつもありがとうございます。

 

前回、「永遠の生命とは?」というテーマで、仏教の基本的な考え方である縁起について学びました。今回は、縁起についてもうさらに詳しく学び、仏教の核心とも言える「」の考え方を理解したいと思います(今回はちょっと長めになってしまいました)。

 

前回、縁起(縁りて起こる)というのは「いかなる物事もそれ自体では存在せず、他のものからの影響によって存在する」という考え方だと説明しました。その際に、物事の時空間的な相互影響(つながり)を例に挙げて説明したのですが、実はこれは縁起の一面的な捉え方にすぎません。前回説明したタイプの縁起は「物理的縁起*」であり、仏教にはもう一つ「論理的縁起」という考え方があります。

*「物理的縁起」という用語は一般的ではなく「時間的縁起・空間的縁起」と呼ばれることの方が多いですが、管理人はこれらをまとめて「物理的縁起」と呼んでいます。

 

論理的縁起とは、一言で言うと「概念同士の相互依存を説明したものです。これだけでは、何を言っているのかさっぱり分からないと思うので、まず概念とは何かということから順を追って説明したいと思います。

 

世の中には様々な概念があります。例えば「」というのは概念の代表例です。しかし、不思議なことに、実際には「悪」という実体的なものが存在するわけではないのに、我々は「悪」という言葉を使用しながら生活しています(「あの人は『悪』人だ」とか、「『悪』いことをするな」といった具合に)。なぜ我々がこうした概念を使用するのかというと、そうすることで生活が便利になるからです。例えば「悪」という言葉には「自分勝手」とか「不誠実」とか一言では説明できない様々な意味があるわけですが、これらを「悪」としてひとまとまりに分類することで、情報の伝達が容易になります。つまり、「あの人は自分勝手で不誠実であーでこーで〜」と長々と説明しなくても「あの人は悪人だ」と言ってしまえば、簡単に情報が伝わります。これは「」の反対の概念である「」についても同じことです。また「」や「」といった動物の分類、これらも概念です。例えば犬にも様々な種類がありますが(チワワやダックスフントなど)、これらを「犬」という概念で括(くく)ることで、これらをひとまとまりにして扱うことができるのです。

 

このように、概念というのは非常に便利なもので、我々はその恩恵にあずかっているわけですが、その反面、非常にやっかいなものでもあります

 

なぜかというと、我々は概念によって分類されたものを、差別や排除の対象にしてしまう傾向性があるからです。

 

例えば、ヨーロッパ人はかつてアフリカに渡り現地の人々と出会いました。その際、自らと彼らを区別するため、自らを「白人」と呼び彼らを「黒人」と呼びました。この「白人」と「黒人」というのは単なる概念です。つまり、分類のためのツールとしての言葉に過ぎません。ヨーロッパ人とアフリカ人が出会う前は、どちらも自らのことを単に「」と呼んでいたはずです。ただ、この「」という言葉だけでは、ヨーロッパ人とアフリカ人を区別して扱うことができなくなった(または不便になった)ので、「白人」と「黒人」という概念が生まれたわけです。しかしながら、これらの概念が生まれたことによって、「白人の方が黒人よりも優れている」という差別意識が副次的に生まれることになってしまったのです。

 

もう一つ例を挙げると「日本車」と「外車」も同じです。もともと日本には単に「」しかありませんでした。ですが、明治以降、海外の車が日本に入ってきたことで、日本の車と海外の車を区別しなければならなくなりました。そこで「日本車」と「外車」という概念が生み出されたわけですが、これが後に「外車の方が優れている」「いや日本車の方が優れている」といった論争につながってくるわけです。

 

ここで、本題である論理的縁起の説明になりますが、これは「相反する概念は、互いが互いを支え合っている」ということを意味します。例えば、「」という概念は「」という概念なしには存在できません。また、「」という概念も「」という概念がなければ存在できません。片方の概念が生み出される際に、もう片方の概念も(区別の必要性に駆られて)同時に生み出されてしまうからです。これは「優と劣」「清と汚」「大と小」「白人と黒人」「日本車と外車」などの相反する全ての概念において言えることです。

 

仏教では、こうした相反する概念のうちのどちらか一方にこだわることを「偏執」と呼び、苦悩やトラブルの原因と考えます

 

そもそも「」というのは、上で説明したように単なる区別のためのツールとしての言葉に過ぎません。また「悪」という言葉が意味するものも、人や状況や時代などによって様々に変化するものです。ですが、「悪」というものを固定的な性質であると錯覚してしまうと、「悪になってはいけない」「悪は排除しなければならない」という強迫観念に駆られてしまうのです。これこそが仏教が戒めている「偏執」ということなので

 

 ここで、一般的な「善と悪」の考え方と、仏教における善と悪」の考え方の比較を示したいと思います(下図)。

 

 

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一般的な善と悪の考え方では、「善」と「悪」を固定的な性質と考え、片方を好ましいもの、もう片方を好ましくないものとして扱います。これに対し、仏教における「善」と「悪」の考え方では、「善」と「悪」は相互依存的な概念であり、しかもそれらの概念が意味する内容は人や時代や状況によって変化すると考えます

 

一般的な方の考え方は、多くの宗教にありがちで、例えば、ヒンドゥー教(=バラモン教)では、穢れ(ケガレ)という固定的な性質が奴隷や不可触民の心身に備わっていると考え、ヒンドゥー教徒はこれを嫌ったり避けようとしたりします。一方、仏教ではヒンドゥー教が主張する「穢れ」というのは単なる概念に過ぎず、実際に奴隷や不可触民が汚れているのではなく、ヒンドゥー教徒によってそのように認識されているだけだと考えます仏教が平等の思想と呼ばれるのは、こうした概念を固定的に考えないためなのです。

 

このような仏教の見解は「空」の思想と呼ばれています。「」とは「空っぽ」、すなわち「性質を欠いている」ということです。つまり、善人には「善」の性質、悪人には「悪」の性質が備わっているわけではなく「善」や「悪」といった性質が人に備わっているように錯覚しているだけ(実際は空っぽ)と考えるのです。「空っぽ」ということは、認識する側によってその内容が決まるということです。

 

こうした「」の考え方によって様々な固定観念から自由になるというのが仏教の基本的な考え方であり、この考え方に基づいて物事の判断や行動をすることを「中道」と呼びます。

 

つまり、縁起中道の3つは、異なる考え方ではなく、同じ考え方を異なる角度から述べたものということになります。

 

最後に、創価学会について考えてみましょう。創価学会は、自教団に反する勢力を「仏敵」と呼んで彼らを排除しようとします。これは「敵」という性質が相手に備わっているという錯覚から起こる行動であると言えます。仏教では、「敵」も「味方」も単なる概念に過ぎず、その概念は自らの認識が生み出してると考えます。ですから、こうした区別を固定的に考えて相手を排除してしまうような態度は、少なくとも仏教の団体を名乗るのであれば、あまり適切とは言えないでしょう。

 

長くなってしまいましたが、これで「縁起・空・中道」の基本的な解説は終わりです。ありがとうございました。(・ω・)ノ

17. 永遠の生命とは何か

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前回、仏教では地獄は実在する場所ではなく、心の状態として解釈されることを説明しました。また、仏教は、前世や来世に関しては「無記(言及しない)」の立場であり、霊魂の存在も想定しないことを説明しました。

 

しかし、仏典には「仏は不滅である」とか「仏の寿命は永遠である」などの永遠の生命を示す表現が多く見られます。一体、仏教はどのようにして霊魂の存在を想定せずに永遠の生命を説明するのでしょうか

 

これを理解するために、まず仏教の基本的な考え方である縁起を理解する必要があります。

 

縁起とは、「縁りて起こる」という意味で、「全ての物事は互いに影響しあうことで存在している」という考え方です。

 

例として、私(このブログの管理人)という存在について考えてみたいと思います。例えば、私は今ここで生きてパソコンの前に座っていますが、私は私だけで存在しているわけではありません。まず、私を育てた両親がいて、その両親を育てた両親がいて、そのまた両親がいて……と、遥か昔の先祖からの影響(=縁)によって存在しています。また、今日まで私が関わった友人・知人などの人々からも何らかの影響を受けてます。もし、彼らのうち誰か一人でも欠けていたら、私は(少なくとも今の状態では)存在していません。それから、私を含め、人間は食事からエネルギーを摂取しないと生きられません。ですから、その食事を作った人、その材料となった動物、その動物を育てた人、その動物が食べた植物、植物を育てた太陽光……と辿っていくと、宇宙の中の無数の影響によって私が存在しているということが分かります。また、同時に、私も他の人やものに影響を与えながら生きています

 

このようにして考えると、この世界には何一つとして独立して存在する物はないということが分かります。太陽も地球も人も草木もすべて、時間的にも空間的にも無限の関係性でつながり合って存在しているのです。

 

ちなみに、今話題の小説「君たちはどう生きるか」では、主人公のコペル君がこれとまったく同じ発見をします。原文は少し長いので、doodling氏のブログから小説の該当部分の要約を引用します。

 

【叔父さん、聞いてください。僕はすごい発見をしたのです。子供のころに僕が飲んでいた、粉ミルクの缶。いまでもお菓子を入れるのに使っているあの缶のことを、こないだ夜中に目がさめたとき考えました。あの粉ミルクは、オーストラリアで作られたと缶には書いてあります。ということは、オーストラリアの牛から僕までの間には、牛の世話をして乳をしぼる人→工場に運ぶ人→粉ミルクにする人→缶に詰める人→鉄道に運ぶ人→汽車の人→港の人→船の人、さらには日本についてから荷おろしをする人→運ぶ人→売る人、広告する人、小売りの薬屋の人→薬屋の小僧、というふうに、長い長いリレーが続いていることになるでしょう。つまり、工場や汽車を作る人まで考えれば、何千何万という顔を見たこともない人たちが、粉ミルクの缶を通して、僕につながっているのにちがいありません。そして、これは粉ミルクだけの話ではなく、家にある時計も電灯も机も何もかも同じであって、どの品物のうしろにも、たくさんの人間がぞろぞろつながっているのです。だから、僕の考えでは、人間分子は、みんな、見たことも会ったこともない大勢の人と、知らないうちに、網のようにつながっているのだと思います。それで、僕はこれを「人間分子の関係、網目の法則」ということにしました。僕は、いま、この発見をいろいろなものに応用して、まちがっていないことを、実地にためしています。】

引用:吉野源三郎『君たちはどう生きるか』(1937) - キッチンに入るな

  

このように、仏教は万物の存在を他との関係性によって説明します。それに対し、ヒンドゥー教(=バラモン教)の世界観では、万物は宇宙の根源であるブラフマン(梵)から生成すると考えます。また、万物はブラフマンによって支配(コントロール)されることで存在していると考えます

 

仏教はこうしたブラフマン(宇宙の根源)の存在を認めません(有無が判別できないものについては仏教はすべて「無記」)。あくまで、確認できる物事のみを対象とし、それらが縁起(相互依存関係)によって存在していることを観ずるというのが仏教の考え方です。

 

さて、最初の疑問である「仏教は永遠の生命をどう考えるか」の答えも見えてきたと思います。すなわち、一人の人間の影響が時間的にも空間的にも途切れることなく連鎖して他のあらゆる物事を支えている、というのがその答えです。これは生まれてくる前も生きている間も死んだ後も同じです。いつでもどこでも「今ここ」との関係が途切れることはないのです。

 

仏(目覚めた人)はこのように自己と世界を見ているのです。仏が「不滅」であり「寿命が永遠」であるというのは、不老不死だとか霊魂が永続するとかではありません仏は「生きている状態」と「死んでいる状態」の区別していない(差異に囚われていない)ということなのです

 

日蓮は「生死を離れる」という表現を頻繁に使いますが(守護国家論、開目抄、善無畏三蔵抄など)、これは悟った結果、「」と「」の区別に囚われなくなることを表現しています。仏教は、縁起の考え方を用いることで、「生と死」や「善と悪」や「清と汚」のような相反する要素の対立を解消することができます。そうすることで、対立する要素のうちのどちらか一方へ執着することを防ぐのです。また、これを実践的に言うと「中道」ということになります。

 

すこし長くなりましたが、今回はここまでです。

 

次回は、「縁起」と「中道」の考え方をさらに詳しく説明し、さらに仏教の本質ともいえる「」の思想を学びたいと思います。

16. 地獄は心の中にある

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創価学会員はよく「地獄に落ちる」という表現を使います。「学会を疑うと地獄に落ちる」「学会を批判すると地獄に落ちる」「学会を離れると地獄に落ちる」といった具合にです。

 

しかし、この「地獄に落ちる」という表現は、少なくとも仏教としては適切ではありません。

 

なぜなら、仏教では地獄はどこか遠い場所ではなく、我々の心の中にあると考えるからです。

 

地獄というのは、もともとはインドのヒンドゥー教(=バラモン教で信じられていた架空の世界です。ヒンドゥー教には輪廻という考え方があり、死後に魂が古い肉体から抜け出して新しい肉体に宿ると考えられています。来世にどのような肉体に魂が宿るかは、前世でどれだけ善いことや悪いことをしたかで決まります(業報思想)。そして、前世で物凄く悪いことをした結果、魂が赴く場所が地獄というわけです。

 

この輪廻と業報思想というのは、ヒンドゥー教の支配階級にとって物凄く都合の良い考え方です。なぜなら、支配階級の人々は、生活環境が劣悪な奴隷や不可触民に対して「お前らは前世で悪いことしたから、その身分に生まれたんだぞ」と言って責任転嫁できるからです。しかも、「来世もっと良く生まれ変わりたかったら、今世で俺らの言うことをちゃんと聞けよ」と彼らを支配することまでできるのです。

 

一方、仏教はヒンドゥー教の輪廻の考え方を根本から否定し、死後どうなるかや前世がどうであったかという問題に関しては「無記(言及しない)」の立場をとります。ですから仏教徒は霊魂が抜けるとか宿るとかそういうことも議論の対象としないし、霊魂の存在すらも想定しません。

 

そのかわり仏教では、輪廻というのは生きている時の心の在り方の変化であると考えます。この観点からすると、地獄というのは、偏執(偏った認識)が極限まで高まった結果、周りのすべてが自分を苦しめているように錯覚した状態、ということができます。前回説明したアンベードカル博士の言葉と同様、物事を徹底して心(認識)の問題として処理するんですね。

 

最も成立が古い原始仏典であるスッタニパータには、

【凡夫は欲望と貪りとに執着しているが、眼(まなこ)ある人はそれを捨てて道を歩め。この世の地獄を超えよ。中村元ブッダのことば」p153)】

とあり、地獄が来世ではなく現世の問題として捉えられていることが分かります。

また、同じスッタニパータに、

【世の中にある種々様々な苦しみは、執着を縁として生起する。(中村元ブッダのことば」p221)】

とあることから、この世の地獄というのは、執着(=偏執)が原因となって起こる苦しみのことであると理解することができます。

 

また、日蓮は十字御書において

抑(そもそも)地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば・或は地の下と申す経文もあり・或は地の下と西方と申す経も候、しかれども委細にたづね候へば我らが五尺の身の内に候とみへて候(中略)我等が心の内に父をあなづり母をおろかにする人は地獄其の人の心の内に候(中略)仏と申す事も我等の心の内にをはします(御書p1491)

と述べ、地獄や仏はどこか遠い場所にあるのではなく、我々の心身の内にあることを明言しています。

 

学会員が「地獄に落ちる」と言って会員を脅すのは、ヒンドゥー教の支配階級が奴隷や不可触民をコントロールするのに用いる手口と全く同じです。教団や社会システムから離脱しないよう彼らの心を縛り付けているだけなのです。ですから、こうしたことを学会から言われたとしても何も心配する必要はありません。仏教はこういった考え方を迷妄に過ぎないと喝破しているのです。

 

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