15. アンベードカル博士に学ぶ仏教の本質

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こんにちは。いつもありがとうございます。

 

今回は、アンベードカル博士1891-1956)の言葉を通して仏教の基本的な考え方を学びたいと思います。

 

アンベードカル博士は、カースト制度・不可触民差別の撤廃に生涯を捧げたインドの政治家・思想家です。

 

彼自身、不可触民の出身だったため、壮絶な差別に苦しみましたが、仏教の思想を背景にヒンドゥー教の差別思想と徹底的に闘い、最終的にカースト制度を廃止に導きました。また、彼はインド仏教復興運動の創始者でもあります。

 

以下、彼の言葉です。

 

穢れとは、浄化の反対語ではない。差別する心の、ありのままを指す。いわゆる不可触民性(untouchability)とは、差別者が触れたがらないその本心のことである。

引用元:https://twitter.com/babasaheb_japan/status/768247681978281984

 

これは「穢れているのは不可触民ではなく、彼らを「穢れている」と認識している心の方だ」ということを言っています。

 

実は、この考え方こそが仏教の本質なのです。

 

ヒンドゥー教では「穢れ」が「不可触民」とされる側の人に備わっていると考えるのに対し、仏教では「穢れ」というものは認識する側の人の心が生み出していると考えるのです。

 

つまり仏教は物事に対し、相手や環境といった外的な問題としてではなく、認識すなわち内的な心の問題として取り組むということです。

 

先日、救護のために相撲の土俵に登った女性の医師が、土俵から降りるように指示されるという出来事がありました。あの出来事は、相撲協会の職員に「女性=穢れている」「土俵=神聖である」という認識があったために起こったと言えます。

 

考えてみれば女性というのは単なる性別の分類の一つに過ぎませんし、土俵も言ってしまえば単なる加工された地面の出っ張りに過ぎませんしかし、人間は無意識のうちにこうした対象を穢れていたり神聖であったりといったバイアスを掛けながら見ているのです。そして、このような偏った認識に囚われてしまうこと(偏執)こそが、あらゆる苦悩やトラブルの原因であるというのが、仏教の基本的な考え方になります。

 

仏教ではこの偏執を除くために、物事をありのままに観察するという方法を用います。物事をありのままに観察するとは、「不可触民=穢れている」「女性=穢れている」「土俵=神聖である」「地位・名声=偉い」「特定の人種=劣っている・優れている」などのすでに構築された価値観をいったん解体して白紙に戻すということです。そうすることで、あらゆる物事を差別なく見ることができるようになります。これがいわゆる「悟り」であり、「悟り」を開くことによって、あらゆる偏見から解放された真に自由な生方ができるようになるというのが仏教の教えなのです。

 

アンベードカル博士は、人々の偏った認識が積み重なることによって社会の中にカースト制度が構築されてきたことに気づき、人々の心のあり方から社会の仕組みを変革しようとしました。アンベードカル博士や彼の考えを支持した人々の努力が実を結び、1950年に制定されたインド憲法ではカースト制度が廃止されることになりました。

 

しかし、法律的なカースト制度は廃止されたものの、カーストによる差別そのものは現在でも根深く、就学・就職・結婚などに大きな差があります。しかし、アンベードカル博士の思想と行動は、今でもインドで差別と闘う多くの人々を勇気づけています。

 

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14. 仏法の根本は師弟にあらず

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仏法の根本は師弟である」と創価学会は主張しています。しかし、これは仏教に対する適切な認識ではありません。

 

確かに、仏教の中にも師弟という要素を重視する宗派は存在します。特に、密教ヒンドゥー教の修行法を取り入れた神秘主義的な大乗仏教)では、師弟の関係が特に重要とされ、師の存在なしに悟りは得られないとされることもしばしばあります。

 

しかし、仏教の一般的な考え方としては、重要なのは飽くまで「自己」と「」であり、師が特別に重視されることは稀です。原始仏典の大パリニッバーナ経では、「この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。(訳・中村元氏)」との釈迦の言葉が伝えられており、他人を根本としてはならないことが示されています。

 

また、日蓮も「依法不依人(法に依りて、人に依らざれ)」という大般涅槃経に説かれる釈迦の言葉を自身の著作に繰り返し引用しています。

 

さらに、日蓮自身の言葉を見ても、

人を以て知識と為すは常の習いなり然りと雖も末代に於て真の知識無ければ法を以て知識と為すに多くの証在り守護国家論、御書p66)】

と、他者ではなく法を判断基準とすべきことを述べており、さらに

是非につけて出離の道をわきまへざらんほどは父母・師匠等の心に随うべからず(報恩抄、御書p293)】

と、悟りを得ようと思ったならば親や師などの目上の人に従ってばかりいてはならないことを述べています。

 

つまり、日蓮自身に師弟関係を特別に重んじたり、師匠を絶対視する考え方はまったくなく、むしろ師であっても盲信することなく疑ってかかれと言っているんですね。

 

では、なぜ創価学会がここまで師弟や師を重視するかというと、その源流はやはり日蓮正宗にあります。日蓮の死後、日蓮正宗は徐々に台密天台密教)の要素を吸収していき、その過程で、血脈相承師から弟子への法の相続)という密教の考え方を導入しました。また、第26代法主の日寛に至っては、天台宗恵心流口伝法門(極度に密教化した天台法門)をほぼそのまま流用する形で、日蓮を永遠普遍の師とする人法一体日蓮本仏思想を作り上げました。そして創価学会は、この密教化した日蓮正宗の教義をさらに流用することで、本来の日蓮思想とは全く異なる「師弟不二」や「師弟の血脈」といった師匠崇拝とも言える師弟観を生み出していったのです。

 

これは知人の本部職員の方から聞いた話ですが、タイなどの伝統的仏教国では創価学会の考え方が全く受け入れられないそうです。「何で仏教なのに他人を根本にしてるの?」と不思議がられるのだそうです。まあ、そりゃそうですよね。

 

ちなみに将棋の世界では、弟子が師匠に将棋で勝つことを「恩返し」と言います。とても爽やかな師弟観です。弟子が師匠から自立し、新たな道を確立することこそが、本当の意味での「師への報恩」なのだと私は思います。

 

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13. 日蓮思想についての管理人の基本的な考え

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日蓮思想についての私の基本的な考えを列挙します(このページは、随時内容を追加・編集していく予定です)。

【全体について】

日蓮の思想は、(絶対的ではないものの)一定の普遍性をもっており、現代においてもその内容を明らかにする意義は大きい。

【理論について】

日蓮思想は排他主義でも包摂主義でもなく、それらの止揚である(一往勝劣・再往一致)。

日蓮思想は自力でも他力でもなく、それらの止揚である(自他共力)。

精神と身体は相互に影響しあい、分離することができない。両者に優劣関係や主従関係はない(色心不二)。

自己と環境は相互に影響しあい、分離することができない。両者に優劣関係や主従関係はない(依正不二)。

仏界とは、目指すべき特定の場所や境地ではなく、人や物や環境が本来有する内面的・外面的な作用の一つである。これは地獄から菩薩の九界も同様である(十界互具)。

成仏とは、修行の結果として仏の境地に至ることではなく、修行の過程において思索や行動の中に仏の作用を現すことである。よって、修行(因行)と結果(果徳)は一体不可分である(因果倶時・因果一如・修証一如)。

日蓮を本仏とする説も、釈迦を本仏とする説も日蓮の本意ではない(本仏思想や人本尊思想は日蓮自身になかったとする戸頃重基氏の説を支持)。

日蓮正宗創価学会が主張する血脈論・師弟不二論は日蓮の教説とは無関係である。

【修行法について】

唱題行は、一念三千の観心修行である。曼荼羅はその補助となる。

曼荼羅は帰依の対象である法本尊を具象化したものに過ぎず、それ自体に神秘的な力はない。

拝する本尊の形態は、曼荼羅と久遠釈迦立像の両方を認める。ただし、久遠釈迦立像は人本尊ではなく、法本尊を擬人化したものであり、帰依の対象は曼荼羅の場合と異ならない。

唱題は声に出さずに念じるだけでも有効である(題目の受持に意味がある)。

唱題の効果は、回数や時間と比例しない。

曼荼羅の「認定」や「開眼供養」は、日蓮思想として認めない。

創価学会について】

創価学会の教義や活動には問題が多く、少なくとも現状は「日蓮仏法を唯一正しく実践する団体」とは呼べない。

三代会長、特に牧口常三郎氏と池田大作氏の思想には、正当に評価されるべき点がある。

 

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